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【시네마 殿】映画人生에 후회는 없다 2010-06-02
【キネマ殿】映画人生に悔いはない
「千年の都」京都は、映画の都でもある。わずか100年余りの映画の歴史だが、京都には思わぬ映画の遺産がある。
その一つが、映画人の位牌(いはい)を多数まつる「キネマ殿」。一般の人も参拝できるというので、出かけてみた。JR山陰線の円町駅から北に数分歩くと、キネマ殿がある法輪寺(京都市上京区)に着く。境内の諸堂には、約8千体といわれる大小様々なダルマがあり、「達磨(だるま)寺」が通称になっている。
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本堂横の衆聖堂の2階に上がると、壁面に位牌が並ぶ。このうちの一角がキネマ殿と呼ばれ、「大日本映画界萬霊位」と書かれた大きめの位牌を、映画人の140ほどの位牌が囲む。幅の広い位牌には10人前後の名前がある。ほかに過去帳も納められ、約800人の霊がまつられている。
名前を追ってみた。フランスから日本に初めて映画を導入した稲畑勝太郎、映画興行と製作に尽力した横田永之助、日本初の映画監督といわれる牧野省三ら草創期の人たち。大河内伝次郎、阪東妻三郎、月形竜之介、田中絹代、石原裕次郎、美空ひばりといった往年のスターや、溝口健二、伊丹万作、小津安二郎、山中貞雄ら名監督たち。位牌を眺めるだけで、日本映画の歩みがたどれる。こんな祭壇は、他にはないだろう。
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これらの位牌は、なぜまつられるようになったのか。達磨寺がつくった「キネマ殿由来記」によると、発端は1940年にさかのぼる。日活太秦撮影所長などを務めた池永浩久(1877~1954)が、「浮雲のように流れて消える映画芸能人の末路を哀惜して、発案した」という。池永は、京都市内の自宅を改造して祭壇を設け、慰霊のための組織「大日本映画大道会」をつくった。設立総会には、日活、松竹、新興キネマ、大映などの社長も賛助者として参加した。その時に、まつられた映画人は359人。
第2次大戦で日本の敗色が濃くなった44年、池永は親交のあった達磨寺の後藤伊山住職を頼り、祭壇を奉納した。池永や後藤住職が他界した後も、寺では亡くなった映画人の縁者や関係者からの申し出があると、位牌を安置してまつっている。戒名ではなく生前の名前が記されるのは、宗派にとらわれないという、池永の遺志を継いでいるためだ。
達磨寺の今の住職・佐野泰典さん(47)は、「映画は今では立派な産業になりましたが、初期のころは、うさん臭い目で見られていたという。そんな中で、映画のタネをまき、育て実らせた有名無名の人たちがいたことを、位牌は教えてくれます」と語ってくれた。(長谷川千尋)
■推薦
映画史研究家 鴇(とき)明浩さん(45)
たたえる心伝わる「貴寧磨殿」
17年前、達磨寺の近くに住んでいたときに、たまたまキネマ殿のことを知りました。翌年、出版した「京都映画図絵」という本の中で紹介しました。キネマ殿を発案・創設した池永浩久は、ひげをたくわえた風貌(ふうぼう)から、撮影所員に「天神様」と呼ばれ、人情味のある人物だったそうです。「キネマ殿」は「貴寧磨殿」という漢字を当てますが、映画に人生をささげた人たちをたたえる心が伝わってきます。